追悼

 

名誉会員 羽鳥謙三先生を偲ぶ

 

日本地質学会ニュース Vol. 12, No. 11, p. 15 掲載

[石渡ページ]

2009年12月07日作成・2013年10月07日更新


 

追悼  名誉会員 羽鳥謙三先生を偲ぶ

 

 羽鳥謙三先生は200992日に亡くなられました.81歳でした.私は先生のご専門の第四紀地質学の研究者ではありませんが,先生が37年間勤務されていた東京都立神代高等学校で,地学の授業や地学部の活動を通じ直接先生のご指導を受け,卒業後地学の道に進んでからも,先生から温かい励ましとご支援をいただいてきたご縁で,感謝と思慕の念を込めてこの追悼文を記させていただきます.

羽鳥先生は鉱山技術者の卓松さん・よねさん御夫妻の二男として1927(昭和2)年に東京都世田谷区駒沢(当時は東京府下荏原郡駒沢村字上馬引沢)で出生されました.少年の頃は戦争の時代で,空き地で塹壕を掘って戦争ごっこをしていたのが,関東ローム層との最初の出会いだったそうです.世田谷中学を経て仙台工専の採鉱科に進み,終戦後,東北大学理学部地質学科に入学されました.2年生の時から房総半島をフィールドとして卒論研究を始められ,その頃から,東京の大学の若手が組織していた地学団体研究会の活動に参加されるようになりました.大学卒業直後の1951年,神代高校(府立第15高女の後身)教諭に採用され,地学や生物を教授されました.この時から関東ローム層の研究を本格的に始められ,1958年に寿円晋吾氏と共著の「関東盆地西縁の第四紀地史」(地質雑, 64, 181-194, 232-249)を公表されました.これは火山灰層の鉱物組成による綿密な対比を基礎として段丘地形とローム層の層序の関係を明らかにした画期的な論文で,その後発展した氷河性海面変動や火山灰年代学などの分野の先駆的研究となりました.

このような「関東ローム層に関する総合的研究」の業績により,1963年に関東ローム研究グループ17人ほかの一員として第3回日本地質学会賞を受賞されました.また,1965年に論文 "The Kanto loam and the terrace formations" により京都大学から理学博士号を得られました.1974-75年と7778年には本学会評議員を務められ,1959年から1994年まで日本第四紀学会(1956年創立)の評議員を務められました(その後同学会名誉会員).そして,1998年に他の20名とともに日本地質学会名誉会員に推挙されました.

先生は多数の著作を世に送り出されました. 1965年には築地書館から共編で大著「関東ローム その起源と性状」を出版され,1971年には共立出版から柴崎達夫氏と共編で地球科学講座第11巻「第四紀」を出版されました.これらは日本の第四紀学のパイオニア的な教科書でした.2004年には地団研ブックレットシリーズ11として「武蔵野扇状地の地形発達―地形・地質と水理・遺跡環境―」,および「地学教育と科学運動」特集号として「ロームと四紀ことはじめ―研究と教育のはざまで―」を単著で出版されました.2007年には共著で杉並区立郷土博物館研究紀要別冊として「杉並の地形地質と水環境のうつりかわり」を出版され,そして今年(2009)6月には之潮(コレジオ)社のフィールド・スタディ文庫4として単著で「地盤災害 地質学者の覚え書き」を出版されました.この本は先生ご自身が調査された地震や大雨による都市型の地盤災害の実例に基づいて,一般の人に良い住宅地の地学的な見方・選び方を説明した本です.これが先生の最後の著作となりました.

先生は,1988年に定年退職されるまで,37年間にわたって神代高校の教諭を勤められ,学校周辺の地形・地質の野外見学やスライドを用いたわかりやすい授業で多くの生徒に地学を教授されました.高いレベルのご研究を続けながらも,教育者として真剣に生徒と向き合い,生徒に学ぶことの厳しさと楽しさを教えて下さいました.私もその授業を受けた一人ですが,試験は1回もなく,成績の評価は何回かの授業のレポート(各B5用紙1枚)で行われました.時々他の教科の先生が教室の後ろで羽鳥先生の授業を聞いていたのを覚えています. また,生徒に教えるだけでなく,生徒から学ぶこともお上手でした.後年ご自宅を訪問した時に,「最近卒業した生徒から本格的なコーヒーのいれ方を教わった」と仰って,おいしいコーヒーをいれて下さったことが印象に残っています.1972年にはNHKの通信高校講座「地学」の講師としてテレビに出演され,「地学」シリーズ全体のまとめ役も務められました.一方,1980年代前半に,団体研究の成果発表に関して深刻な問題が起き,著作権を争う裁判になってからは,長年にわたり原告団の団長を務められました.

先生は神代高校在職中から群馬大学教育学部などの非常勤講師をなさっていたようですが,同校ご退職後は共愛学園女子短期大学の教授を10年間務められ,1998年には同短大をご退職されて名誉教授になられました.この間の公開講座のテキストが「地球環境と地域社会」という本として煥乎堂から1993年に出版されましたが,先生が執筆された「資源と環境」の章は,大学の地球環境学の講義として非常に優れています.

先生は野外調査を重視され,全国各地で地震や大雨による地盤災害(1971年に犠牲者15人を出した人工降雨による生田緑地事故も含めて)が起きる度に現地調査に出かけられましたが,1999年の台湾集々地震の調査が最後だったそうです.しかし,その後2001年の日本地質学会年会(金沢)の際,私たちが案内した夜久野オフィオライト・丹波帯巡検にご参加下さり,かつての教え子として大変嬉しく思いました.この年会で,先生は他の206名の会員とともに最初の50年会員として顕彰されました.この頃は前橋工科大学の講師を勤められていたようですが,最近はご自宅で執筆活動に専念されていました.

先生から直接ご指導を受けた19581990年卒業の神代高校地学部同窓生は230名を超えます.同地学部は,日本地学教育研究会優秀賞(1961)や第14回日本学生科学賞東京都審査奨励賞(1970)を受賞した「多摩丘陵の夜間の微気象研究」を継続的に行ったほか,奥多摩の鍾乳洞の微気象や天文・地質分野の研究も行いました.同窓生有志ら40名(米国在住者を含む)は,今年の5月2日に新宿でOB会を行い,先生は奥様とともにご出席の予定だったのですが,その前日に入院されたため,お会いできなかったのが残念でなりません.卒業後何10年が経過して,それぞれ異なる道を歩いていても,地学部の楽しさが忘れられず,世代を超えて集まり語り合えるのは,先生のご薫陶の賜物だと思います.先生はその後退院することなく,4ヶ月後に逝去されました.戒名は「碩学院謙道理源居士」とのことです.心からご冥福をお祈り申し上げます.

(石渡 明)


 

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2009年12月07日作成・2013年10月07日更新