石渡ページ・オリジナルの随筆

桃李天下に満つ

 

東北大学東北アジア研究センター 石渡 明

[石渡ページ]

 

2013年10月07日作成 2013年10月15日更新

 


 

(左: 中国の友人が書いてくれた「桃李満天下」の文字)

 

 これはいささか自慢めいた話になるので気が引けるが、同じ出典に基づく日本と中国のことわざについて、面白い違いがあることがわかったので、一文を草することにした。

先日、私が奉職する仙台の東北大学で、私が会長を務める日本地質学会の年会が開催された。その機会に、東北大学と前任の金沢大学の私の研究室の卒業生・スタッフの皆さんが、私の還暦の祝宴を開いてくれた。久しぶりに会った卒業生諸君の元気な顔を見ながら楽しく美酒佳肴をいただくことができ、心底から有難く思った。この学会では、私たちが呼びかけて環太平洋オフィオライトに関する国際シンポジウムを開催したので、中国、ロシア、米国から友人の研究者が来ていたが、彼らもこの祝宴に参加してくれた。その時、ご夫婦で来られた中国の友人が宴会の様子を見て、「これは桃李満天下ですね」と言って、その字を紙に書いてくれた。桃李と言えば、まず高校の漢文の授業で習った「桃李不言、下自成蹊」(桃李(とうり)言わずとも下おのずから蹊(こみち)を成す)が思い浮かぶ。これは優れた宗教家や社会事業家のことを言うのだと思うが、教師は「言ってナンボ」の職業で、黙っていてはいけないと思う。一方、「紅顔むなしく変じて桃李のよそおいをうしないぬるときは」という一節もお葬式でよく聞く。これは「美しく立派な姿」というほどの意味である。「桃李満天下」という一句は聞いたことがなかったが、何となく意味はわかったので、お礼を言って受け取っておいた。

後で調べてみると、日本の辞書には「桃李天下に満つ」という句は載っておらず、似たような意味で「桃李門に満つ」が出ている。これらはいずれも資治通鑑、唐紀、則天武后(皇后)久視元年(西暦700年)の故事に由来する。武后の信頼が厚かった狄仁傑(てきじんけつ、現代中国では傑ではなく杰を用いる)という老年の相談役が姚元崇(ようげんすう)ら数十人の門下生を宮廷に推薦し、後に彼らの多くが名臣になったので、ある人が狄に「天下の桃李はことごとく公門にありますね」と(かなり皮肉を込めて)言ったという話である。それに対して狄は、「人を推薦するのは国のためで、私のためではない」と(向きになって)答えたそうだが、私なら「いえいえ、枯れ木もありますが…」とでも答えたに違いない。狄は何回も武后に退官を願い出たが許されず、現役で死んだ。

「桃李門に満つ」の広辞苑の解は「すぐれた人材が門下にたくさんいることをいう」となっている。日本では、「桃李不言...」の方は小さな国語辞典にも必ず載っているが、「桃李満門」の方はあまりポピュラーでなく、ことわざ辞典でも載せていないものがある。中国でも「桃李満(または盈)門」は稀で、同じような意味の「桃李門牆」は時々見られるが、「桃李満天下」は「教え子が全国至る所にいること」という注でどの辞書にも必ず載っている。新しい言葉ではなく、既に唐の白居易(白楽天, 772-846)に用例が見られるという。実は「桃李満天下」も「桃李満門」も、どちらも原文通りではなく、原文の字に「満」を加えて適当につないだものだが、両者の印象はかなり異なる。原文の門(公門)は中央政府を指し、門に満ちるというのは、要するにエリート官僚を多数輩出したということである。広辞苑は「公門」を「公(尊称、あなた)の門」と解したのだと思うが、古来公門を中央官庁の意とする解は中国の辞書にも載っており、大漢和辞典には「公門桃李」という言葉も出ていて、「官衙に天下有用の人材が集まってゐること」という注があり、資治通鑑の同じ箇所が引用してある(原文は両方の意味を含ませている可能性もある)。一方、原文の「天下の桃李…」は、中国全体から最も優れた人材を見出し、推薦して中央官庁に押し込んだということで、その先生が育てた学生が「天下に満ちている」ということではない。このように、日中どちらのことわざも、出典の原文とはやや異なる意味に使われているが、門に満ちるよりは天下に満ちる方が盛大だし、学閥や門閥にとらわれず社会全体に貢献している印象がある。またここには、同じ短文の故事を読んでも、それを律儀に文字通り、あるいはむしろ矮小化して理解する日本人と、そこから本来あるべきもっと大きな理想を汲み取る中国人の違いが表れているようにも思う。例えば魯迅の「藤野先生」も、そういう目で読み直すと面白い。

桃や李(すもも、プラム)は、春は美しい花が咲き、夏には葉が茂って涼しい木陰をつくり、秋にはおいしい実がなるので、おのずからその下には人が集まり、小道ができる(そして冬には凋落の姿を示して無常を教える功徳もある)。そういう桃李のような優美、有用、有徳の人が門下から沢山巣立って天下に満ちるようになれば、エリート官僚になるような人が一人も出なくても、教師冥利に尽きると言うべきだろう。自分を顧みると、とてもそんな言葉に値するとは思えないが、そういう方向を目指して生きてきたことは確かなので、中国の友人からいただいた今回の言葉は、この上ない還暦の記念として心に刻むことにする。私は、このことわざについては、日本でも今後は門下生の数とか官庁への就職者数などを問題にせず、もっと大きな心で「桃李天下に満つ」と言うことにした方がよいのではないかと思う。桃李のような人が天下に満ちている世界はどんなにか住みやすいだろう。内面が充実した、実力のある人材を育て上げ、彼らが国際社会で活躍するようになるという、大きな夢を教師にいだかせる、すばらしい言葉だと思う。

 以上