日本地質学会第116年年会(岡山) 日本地質学会賞 記念講演

「オフィオライトと東北アジアの地質学的研究」

石渡 明(東北大学東北アジア研究センター)

日本地質学会ニュース12巻10号37-41ページ掲載(2009年10月15日発行)

この記念講演は2009年9月4日の午後に岡山理科大学25号館8階ホールで行われました.
この講演録は学会が録音テープから起こした原稿に石渡が若干手を入れたものです.

[授賞式の写真] [授賞理由書(地質学会News)]
[
東北大学東北アジア研究センター] [石渡ページ]  
[東北大学理学部地球惑星物質科学科・大学院理学研究科地学専攻] 

オフィオライトと東北アジアの地質に関連する石渡のページ

[オフィオライトのページ] [ロシア極東タイガノス半島のオフィオライト('95, '97)]
[中国祁連山のオフィオライト巡検報告('96)] [国際オフィオライトシンポ(フィンランド'98)報告]
[日露オフィオライトシンポジウム報告('06)] [ロシア極東ペクルニー山脈('06)
[日本海及びその周辺域の岩石('01)] [ロシア・チュコートカ・オフィオライト調査報告('09)]
[
日本列島の成り立ちを探る「東北大学の新世紀」東日本放送,2010年3月8日放映] 
 


 石渡でございます。このたびは名誉ある学会賞をいただきまして、本当にありがとうございます。今日は、この賞をいただいた課題「オフィオライトと東北アジアの地質学的研究」につきまして、今まで何をやってきたかということを中心にお話をさせていただきたいと思います。


 まず初めに、私を育ててくれたといいますか、指導してくださった先生方に感謝する意味を込めて、簡単に自己紹介をさせていただきたいと思います。私は学生時代いろいろな大学を転々としまして、大学を終わってからも、パリの大学に3年間、PDのような形でおりました。ですから、恩師と呼べるような方がたくさんいらっしゃるわけです。
 

 私は子どものころから天文が好きだったということもありますが、羽鳥謙三先生のいらっしゃった高校に偶然入ったので、先生がやっていらした地学部というところへ入りました。実は羽鳥謙三先生は、一昨日亡くなられましたが、関東ローム層を研究していらして(0)、東京の神代高校に、35年間ずっといらっしゃった先生です。その研究でもって、団体研究グループの一員として、日本地質学会賞を受けられ、名誉会員になられていたわけです。この似顔絵(0)はどなたが書かれたのかわかりませんが、大変よく似ています。この写真は、私が高校生のころに撮った写真で、先生はよくわれわれを連れて、多摩丘陵の波丘地の気象観測とか、鍾乳洞の探険とかに連れていってくださって、地学の楽しさというものを非常によく教えてくださいました。大変タバコの好きな方で、「タバコ、たき火に御用心」という場所でもお吸いになっていました。
 

 非常に強い影響力がある先生で、我々教えを受けた生徒たちは、卒業してからも鍾乳洞の研究をずっと仲間内でやっていて、こういう同人誌みたいなものを作りました。実は、これは私が書いて活字になった最初の論文で、この同人誌に出ました。これは業績リストには載せられませんが、「倉沢鍾乳洞の異常低温について」という論文であります。この鍾乳洞は東京の奥多摩にあります。大体、穴の中の温度というのは、その土地の平均気温になるのですが、入ってみると、夏行っても、平均気温よりも4℃も5℃も低い場所があります。何でそこの温度が低いのだろうかというのを解明した論文で、そのうちインターネットにでも載せようかと思っています。
 

 当時の大学は一期校、二期校というのがありまして、一期校は見事落ちまして、二期校の横浜国大に入れてもらい、そこの地学に入ったわけです。卒論は、見上敬三先生という方につきました。この方は丹沢山地の研究をされた方で、非常に詳しい地質図を作成しました。この方と一緒に丹沢を歩いて、見様見真似で、山の歩き方を徹底的に教わりました。しかし、卒論は「福井県大島半島及び高浜付近の舞鶴帯の地質−特に超塩基性岩について―」という題でやらせてもらいました。当時、同じ教室に鹿間時夫先生という古生物の大家がいらして、この先生からも非常に強い影響を受けました。


 何でそんなオフィオライトのようなものを研究する気になったかといいますと、私は、天文には興味があったものの、あまり地質には興味がなかったのですが、大学に入って1年、2年と、日曜巡検に度々連れ出されまして、三浦半島、房総半島、丹沢山地などを歩いていました。三浦半島に横須賀線というJRがありますが、横須賀の一つ手前に衣笠という小さい駅があります。この駅の裏に蛇紋岩という石が出ています。当時学会で、蛇紋岩というのはマントルから来た石だということが言われ始めた頃でありまして、この駅の裏になんでマントルから来た石があるのかと不思議でした。周りは、化石が入っているような、第三紀の頁岩とか砂岩とか、そういう石の中にマントルの石がボコンとあるというのはどうにも不思議で、これは誰も説明できなかったのです。現在でもこういう形で、ちょっと裏へ行けば蛇紋岩が出ていますが、もう完全に住宅地になってしまっています。

(a)                                                                                                        (b)
図1.(a) オフィオライトの火成層序.(b) オフィオライトの3つの岩石学的タイプ(25)

 

  卒論では、オフィオライト(図1a)というものについて、外国の論文を読んで勉強をしまして、もしかしたら、福井県のものもオフィオライトではないか、というようなことを書きました。教育学部に入ったものですから、研究はもう止めて、先生になろうと思ったのですが、幸か不幸か、採用がなくて、せっかく卒論で一生懸命やったのだから、何か論文を発表したいと思いました.そこで、大学院のある金沢大学へ、夏に下見に行ったのです。大学の院生室に行ったら、学生さんたちが盛んにいろいろ議論しながら歓迎してくれて、こういうところなら来てもいいなという気になりました。私は、金沢大学にどういう先生がいらっしゃるかということを全然知らなかったのです。試験のときに、半ズボンをはいて、Tシャツを着て、試験監督をしているいかめしい先生がいて、それが坂野昇平先生だったのです。それで、金沢大学でオフィオライトの研究をすることになりました。早速、坂野先生と助手の佐藤博明さんがフィールドを見にきてくださいまして、2年間研究したわけです。
 

 その結果として、「舞鶴帯南帯の夜久野オフィオライト概報」(1)という,修士論文をまとめたものを出すことができました。結局これが日本で最初のオフィオライトの報告ということになったわけです。マントルのかんらん岩、地殻下部の斑れい岩、そして玄武岩が向斜構造をなしていて、スラストを境に衝上している、ということを明らかにしたわけです。


 当時、学界の状況はどうだったかといいますと、例えば東大教授の木村敏雄先生が1977年に書かれた「日本列島―その形成に至るまで―第1巻」(古今書院)という本の中に、「日本にオフィオライトがあると論文に書かれると、古い時代の大洋地殻が日本にもあると考える外国人学者が現れるに至っている。日本の学者にもそれに追随する人が現れている」、ということが書いてありました。要するに、これは日本にはオフィオライトがないということをおっしゃりたいのだと思います。たまたま私が最初になりましたが、次の年に朝比奈利広さんと小松正幸さん、そして更に石塚英男さん、宮下純夫さんたちが、北海道からオフィオライトを報告して、日本にもオフィオライトがいくつかあるということが分かったわけです。
 

 日本語の論文は一応書いたのですが、できればせっかくオフィオライトを研究したので、英語できちんとした論文を書きたいと思いまして、東大の大学院へ進むことになりました。その前に、東大のゼミで話をしたわけです。そのすぐ後、東大の教授の方とスタッフ、学生一同が大挙してフィールドを見にきてくれました。これはもう錚々たるメンバーですが、久城育夫先生、中村保夫先生、高橋栄一さん、高橋正樹さん、永原裕子さん、荒井章司さん、藤井敏嗣さん、鳥海光弘さん,石井輝秋さん,堀越 叡さんたちが見にきてくれました。坂野先生はある時、「君、これは本当にオフィオライトか」と言われまして、そう言われても困るのですけれども、返答に困りまして、うーんと考えて、「外国のがオフィオライトなら、これもオフィオライトです」とお答えしました。そうしたら、「まあ、それならいいだろう」ということでした。それで、オフィオライトだという自信みたいなものが付いたのですけれども、なかなか論文(2),(3)が書けずにいました。
 

 これはその当時の東大久城研の学生たちと久城先生です。私の隣にいらっしゃる先輩が柵山さんです。柵山さんは、残念ながらアイスランド調査中,1984年に亡くなられました.その後、3年前になりますが、地質学会で柵山雅則賞が設けられました。今回は水上知行さんが受賞されたわけですね。
 

 大学院時代に、都城秋穂先生が日本に来られて、やはり非常に強い影響を受けました。また、日本のオフィオライトの草分けの一人でいらっしゃる岩崎正夫先生、小松正幸先生と、最初の外国のオフィオライト見学旅行に出かけ、アルプスを見ました。これが1980年です。その後、自分がここを研究することになるということは、当時は全く思いませんでした。


 東大の博士課程の院生だった頃に、当時フランスが日本の地質に興味を持ちまして、かなり学生を多量に送り込んで、日本侵略に来たわけです。その総大将がこのオーボワン(J. Aubouin)先生で、あと助さん、角さんみたいなシャルベ(J. Charvet)とキャデー(J. P. Cadet)の二人の先生と、そのほかに学生さんたちが何人か来ました。その後,彼らはそれぞれ非常に重要な成果を挙げたと思うのですが、初めての訪日のときに、日本の地質を見るということで、「君、オフィオライトを案内しろ」と坂野先生に言われました。これは後ろが夜久野オフィオライトの大島超苦鉄質岩体でありまして、その前で撮った写真です。中央の方は京都大学の、もう亡くなられましたが、度忘れしてしまいました。すみません(追記:清水大吉郎さんです)。
 

 この縁かどうか分かりませんが、後にオーボワン先生がフランスに呼んでくださって、フランスのオフィオライトを研究することになりました。フランスには1982〜85の3年間いまして、夏は必ずアルプスへ行って、山小屋に泊まって、とにかく歩け、歩けで調べて、特にこのフランスとイタリアの国境地帯のオフィオライトを研究して、それなりの論文(4)を書くことができました。このとき、いろいろな方がフランスに来てくれましたが、会長の宮下純夫さんも一緒にここを歩いてくださいました。そうこうして日本に帰ってきて、やはりなかなか職が見付からずにウダウダしていたのですが、幸い金沢大学に拾ってもらい就職ができました。これは就職して2年後に、当時の山崎正男教授が退官されたときの記念写真です。ここにも錚々たる方々が写っております。
 

 オフィオライト(図1a)の話ですが、私のオフィオライトの研究というのは、学生時代に一つオフィオライトを見つけたというのがありまして、それから、ではオフィオライトというのはどれも均質なのか、それともいくつか決定的に違う種類があるのか。オフィオライトというのは、地球上で時間的,空間的な分布がどうなっているのか、というようなことに興味を持ちまして、その後そういう研究を進めました。さらにオフィオライトに関連するような緑色の岩石、例えば日本のグリーンタフとか、あるいは付加体の中の緑色岩、それからまだ陸に上がってきていない海洋底の岩石、そういったものも調べました。


 オフィオライトの多様性についてですが、マントルのかんらん岩そのものに、単斜輝石の多い岩石から少ない岩石まで、三つの種類があります。オフィオライトの大部分は、このマントルかんらん岩からなるのですが、それに伴っている、マグマ溜まりが固まった火成沈積岩が、マントルがどういう岩であるかによって、火成沈積岩の鉱物晶出順序も特徴的に異なるのです。つまり、かんらん石の次に何が出るかという点で、斜長石が出るタイプと単斜輝石が出るタイプと斜方輝石が出るタイプがあり、それぞれ、この順に枯渇度が高くなるマントルかんらん岩と伴っているということを見つけて、これが結局マントルの部分溶融の程度の差を表しているというようなことを論文(3),(5)に書きました(図1b)。
 

(a)                                                                                                (b)

 

 

 

図2.(a)西南日本内帯のオフィオライトと付加体の模式的な地質構造図と断面図(8).(b) 北米西岸クラマス山地の模式構造図と断面図(Irwin, 1981(26)の図にオフィオライトを加筆).日本と同様に下方へ若くなるオフィオライトの構造的累重関係を示す.

  それから時空分布に関してですが、まず日本のオフィオライト(6),(7)を例に話します(図2a)。例えば西南日本の京都、大阪、ここはわれわれがいる岡山ですが、ここはちょうど舞鶴帯に当たっていまして、実は、この岡山理科大も夜久野オフィオライトの上に建っております。夜久野オフィオライトはペルム紀のオフィオライトなのですが、その上に、古生代前期のオルドビス紀の大江山オフィオライトが乗っています。断面図では,構造的上位の大江山オフィオライトと下位の夜久野オフィオライトの間に、三郡蓮華帯の高圧変成岩が挟まれています。このように、オフィオライトが時代の違うオフィオライトの上に重なっていて、上にあるものが古いということです。別に私自身がそれを全部明らかにしたということではなく、だんだんデータが集まってきて、そういうことがわかりました。
 

 実は、太平洋の向こう側のアメリカでも、全く同じ構造が見られまして(図2b)、古生代前期のオフィオライトが一番上にあって、その下に古生代後期のオフィオライト、ジュラ紀のオフィオライト、そして白亜紀のフランシスカン・コンプレックスと続き、これは全く鏡に映したように、日本と同じ構造になっているわけです(6)(7)。環太平洋の造山帯というのはどこでもそうなっているのではないか。それで、ロシアの研究も始めたわけです。

(a)                                                                                        (b)

 

 

 

 

 

図3.(a) 世界の主なオフィオライト帯とオフィオライトの年代(8).(b) 地球上のオフィオライトの形成年代のヒストグラムが示すオフィオライト・パルス(8)

  これは北極を中心として地球を展開した図です(図3a)。環太平洋のオフィオライトというのは、時代的に見て、非常に年代幅が広い。古生代の前期から、若いオフィオライトは新生代のものまである。それに対して大陸地域の造山帯は時代が限られていて、一つの造山帯は大体一つの時代のオフィオライトしかありません。それらが顕著なパルスを作っていて、地球上では大体3億年周期でオフィオライト・パルスがある(図3b)というようなことを見つけました(8)
 

 このころちょうど日本で、92年にIGC(万国地質学会議)がありまして、そのときにオフィオライト・セッションをやらせていただきました。外国の多数のオフィオライトの専門家に来ていただいて、この「Circum-Pacific Ophiolites」という論文集(8)を、私とJ. Malpasさん・石塚英男さんという編集陣で出すことができました。このVSPという出版社は残念ながら潰れました.現在でもネット書店でこの本を買うことはできますが、非常に高いです。
 

 最近になってから、緑色岩も面白いということが分かりました。それは、丹波帯とか美濃帯、要するに夜久野オフィオライトよりも構造的に下側のゾーンに、多量に分布する玄武岩類です。舟伏山とか灰屋といった美濃帯、丹波帯の緑色岩コンプレックスの中に超苦鉄質火山岩が見つかりました(9)(10)。これは、私たちが直接歩いて見つけたというのではなくて、実はゼミで小泉一人君が紹介した論文の中に化学分析値があって、分析値だけ載っていて何の説明もなかったので、これはとんでもない岩があるということで、それを探しに行ったわけです。超苦鉄質の火山岩というのは、ピクライトというのを皆さんも聞いたことがあるかもしれませんが、もっとマグネシウムが多いのは、チタンが多いのをメイメチャイト、チタンが少ないのをコマチアイトと言います。あと、鉄の多いのがフェロピクライトです。こういうものを続々と、私が指導していた学生さんたちが見つけてきてくれました。これは、カナダのアビチビ(Abitibi)ベルトの典型的なスピニフェックスの発達したコマチアイトですけれども、これと同じようなスピニフェックス組織の発達した岩を、丹波帯の中から、市山祐司君が発見して論文(11)を書きました。出た場所は、福井県の小浜(オバマ)市でありました。最近大変有名になっている市ですけれども、ここの沢にフェロピクライト(12)と先ほどのコマチアイトのようなスピニフェックスの岩(11)が出た。そういう岩はLIP(巨大火成岩区)に特徴的に出る岩で、多分丹波帯、美濃帯の緑色岩も、海洋性のLIPが付加したものではないか、というふうに考えております(13),(14)
 

 

図4.(a) 伊豆マリアナ島弧周辺海底のかんらん岩産地.★印は母島海山の位置を示す.数字はかんらん岩に含まれるクロムスピネルのCr/(Al+Cr) (16).(b) 四国とその南方に発達する付加体の模式断面図(21).(c) 伊豆マリアナ前弧の海溝側斜面に露出するオフィオライト層序と蛇紋岩海山(21).もとにした文献は原著(16) (21)に掲載.

  実際に調査船に乗って、マリアナ、小笠原、伊豆前弧域のオフィオライト岩類を直接ドレッジで調査するという研究も、最近何回か、東大海洋研の石井輝秋先生の計らいでやらせていただきました(図4a)。伊豆・ボニン・マリアナ(IBM)の前弧域というのは、サブダクション(沈み込み)は起きていますが、付加体は形成されていない。つまり、構造的侵食が起きている場でありまして、こういうところにオフィオライトが海底に顔を出していて、しかも、ここには蛇紋岩海山というものがたくさんあって、下から蛇紋岩化したかんらん岩や高圧変成岩などが上がってきているということが、前川寛和さんたちの発見によって知られているわけです(図4c)。一方、日本列島の地殻は、例えばこの平 朝彦さんの四国を通る断面図のように、付加体が発達していて、その前弧域にはオフィオライトが露出していないわけです(図4b)。おそらく、オフィオライトと付加帯が重なり合っている日本の地質というのは、構造侵食が進む状態のときと付加体が成長する状態のときが、地質時代を通じて繰り返し起こったためにできた。つまり、オフィオライトの下に新たに付加帯が形成されますと、そこで浮力を得て、それらが上昇してくる。多分そういうプロセスが繰り返してできてきたのだろうというふうに考えております。なお,海洋底研究の過程で、母島海山からアダカイト質の岩石を新発見することもできました(15)。これは、共著者の李 毅兵さんの仕事が大きいわけです。
 

 東北アジアという点に話を移しますと、オフィオライトとも関係しているわけですが、私の研究は主にロシア、中国で行われました。ロシアの方は、私が自分でロシア人と一緒に研究しているという面が強いですが、中国の方は、坂野先生が始められた京都大学(平島崇男さん、サイモン・ウオォリスさん)、名古屋大学(榎並正樹さん)と中国科学院の共同研究に乗っかってやったという面が強いわけです。
 

 主な問題意識としては、日本海拡大前の地質の連続性と、環太平洋オフィオライト帯の共通の構造があります。日本の地質を知るためには、他の環太平洋帯、特にすぐ近くのロシアの太平洋側は非常に重要だと考えています。もう一つは、大陸衝突帯と環太平洋帯の関係です。これは、要するに中国・朝鮮と日本の関係ということになります。
 

 

図5.(a)東北アジアのオフィオライト帯(16).中国東部の超高圧変成帯とIshiwatari & Tsujimori (2003)(21)によるその延長も示す.数字は調査年度.

  ロシア沿海州(Primorye)と日本というのは、多分日本海が開く前は、ほとんど地層は連続していたというふうに考えられます(図5)。ナホトカの港の近くに姉妹都市の記念碑というのがあります。ナホトカと舞鶴は第二次大戦の後に引き揚げの出発港と到着港になって、そういう縁で姉妹都市になっております。この石碑には日本語とロシア語で「日本海が永久に平和と友好の海であるように」と書いてあります。しかし、この石はあまり石碑にするのに適した石ではなくて、これは夜久野の変斑れい岩であります。白い大きな脈が縦横にたくさん入って、いかにも両国の歴史を象徴しているような石であります。この石は、実は舞鶴から運んできたのだそうです。しかし、これは舞鶴から運んでくる必要はなくて、ナホトカの港の周りにいくらでもある石です。夜久野のオフィオライトの一つの特徴はスピネル変斑れい岩を含むことで、これは要するにオフィオライトのモホ面が非常に深かったという証拠になる珍しい岩でありますが、これと全く同じ岩がロシア側にもあります。鉱物組み合わせは全く同じ、鉱物の化学組成も全く同じで、見るからによく似ております。
 

 また,約20年にわたってコリヤーク(Koryak)山地周辺のオフィオライト帯(図5)を研究しております(16)。最近はチュコートカ自治区のオフィオライトの研究をやっておりまして、今年はその東端部に行ってきました。時間があまりありませんので急ぎます。これは1997年にカムチャツカ半島の付け根の横にあるタイガノス(Taigonos)半島というところに、宮下純夫さん、辻森 樹君、齋藤大地君と一緒に行った時の写真です(17)。ライフルを持っているのが宮下先生で、これが夜の宴会の様子です。これは早坂康隆さん・小泉一人君と行った2006年のベクルニー山脈の調査です。ここには、夜久野オフィオライトのスピネル変斑れい岩よりもさらに深いところでできた、ガーネット(ざくろ石)の巨晶や脈を含む変斑れい岩とそれに伴うウルトラ(超苦鉄質岩)があります(18)。これは町 澄秋君と行った今年の調査の様子ですが、今年はロシアも異常気象でありまして、非常に寒く、海にはまだ氷がいっぱいありました。氷の海を進んでいって、山へ行っても湖にまだ氷が残っているというような状態でした。行った場所は、ベーリング海峡の近くの、北極圏に一部入るような所で、経度は西経になりますが,アジア大陸で一番東側のオフィオライトを見つけてきた、といいますか、確認してきました。
 

 それから中国の研究です。これはもう皆さんご存知で、私はお手伝いに行っただけですから、簡単に済ませます。最も重要な成果は,このようなコーサイト(石英の高圧相)を、エクロジャイトから見つけたということです(19)(20)。超高圧変成帯がそこにあるということが、日本の研究でわかったわけです(もちろん日中共同なのですけれども)。最初にコーサイトを見つけたときは、中国側が持ってきた薄片を京都大学で平島さんたちと一緒に見て、これじゃないかというものを、ユニバーサルステージで光学的性質を確かめて決定したといった経緯がありました。中国の超高圧変成帯の東方延長がどうなっているかについては、朝鮮半島を横断して日本へそのまま続く、あるいは朝鮮半島の西側で南へ折れるといった、いろいろな考え方がありますが、私は、石垣島の高圧変成岩が中国の蘇魯・大別超高圧変成帯と同じ変成年代を示しますので、朝鮮半島を迂回して沖縄を経て日本へ来るのではないか(図5)というような考えを発表しました(21)。
 

 このようにいろいろな研究をやってきましたが、この研究生活の中で、オフィオライト以外で特に面白かったのは、根上隕石の研究です。私は金沢大学におりましたが、金沢のすぐそばの松井秀樹の出身地の根上町、現在は能美市の中心部の、駅前の商店街に停めてあった車の上に、隕石が落ちたということがありました。これを金沢大学の放射化学の先生たちとか、あるいは富山の科学博物館の方たちとか、いろいろな人と共同で調査しまして、こういう論文(22)を書くことができました。私はもともと天文に興味がありましたので、落ちてきた石ではありますが、とにかくこういうもともと空にあった、宇宙を飛んでいたものを研究できたということは、非常に幸いだったというふうに思います。この隕石は新聞記者が大学に持ってきたのですが、最初は田崎和江先生のところへこの石を持ち込んだのです。田崎先生が私に回してくれたおかげで、こういう研究ができたということで、田崎先生に感謝しております。これは、地質ニュースの表紙(23)に載ったコンドリュールの写真です。薄片は私が作ったものです。
 

 地質学会の方では、加藤丈典さんと一緒に、鉱物鑑定表(24)の下敷きを作りまして、これを学会から販売していただいております。これは、実はメイジテクノという会社が、お金をかなり出してくれていまして、ここの偏光顕微鏡には、必ずこの下敷きが1枚ずつついてきます。世界中に売りまくっていますので、世界中にこの下敷きが広まっているということです。また、アイランドアークの編集委員長をサイモン・ウォリスさんと一緒に4年間やらせていただきました。その間に、表紙のモデルチェンジとか、いろいろできました。それから、IODP(統合深海掘削計画)のSSEP(科学立案評価パネル)の共同議長を現在やっております。
 

 こういう研究活動を続けてこられたのは、最初にご紹介させていただいた指導教官の方々、同僚の方々、そして学生の方々が非常に大きな力になってくれたと思います。そして最後に、私事ではありますが、家族に感謝したいと思います。どうもご清聴、ありがとうございました。

文献
(0) 地学教育と科学運動, 34 (2000). (1) 地球科学, 32, 301-310 (1978). (2) J. Petrology, 26, 1-30 (1985). (3) Contrib. Min. Petr., 89, 155-167 (1985). (4) Earth Planet. Sci. Lett., 76, 93-108 (1985). (5) 地学雑誌, 95, 544-558 (1986). (6) 地学雑誌, 98, 290-303 (1989). (7) Episodes, 14, 274-279 (1991). (8) Proc. 29th Int. Geol. Gongr., Part D (1994). (9) Int. Geol. Rev., 46, 316-331 (2004). (10) Contrib. Min. Petr., 149, 373-387 (2005). (11) Island Arc, 16, 493-503 (2007). (12) Lithos, 89, 47-65 (2006). (13) Island Arc, 15, 58-83 (2006). (14) Lithos, 100, 127-146 (2008). (15) Island Arc, 15, 101-118 (2006). (16) Geol. Soc. London, Spec. Publ. 218, 597-617 (2003). (17) 地質学論集, 52, 303-316 (1999). (18) Island Arc, 16, 1-3 (2007). (19) Min. Mag., 54, 579-583 (1990). (20) Eur. J. Mineral., 5, 141-152 (1993). (21) Island Arc, 12, 190-206 (2003). (22) 地球科学, 49, 71-76, 179-182 (1995). (23) 地質ニュース, no. 492 (1995.8). (24) 地質学雑誌, 105, 156-158 (1999). (25) 29th IGC Field Trip Guidebook, 5, 285-326. Geol. Surv. Japan (1992). (26) W.G. Ernst et al. (eds) The Geotectonic Development of California, 1, 29-49. Princeton Hall (1981).


 ●授賞式の写真

 ●授賞理由


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2009年11月06日作成,2013年10月14日更新