第33回万国地質学会議IGC(オスロ)報告

 

石渡 明

日本地質学会News, 11巻9号7−8ページ掲載 (2008)
(日本地質学会の許可を得て本HPに再掲します)

[東北大学東北アジア研究センター] [石渡ページ]  
[東北大学理学部地球惑星物質科学科] [東北大学大学院理学研究科地学専攻] 

[北極探検家、ナンセンから学んだこと 太田昌秀]


 1図 第33IGC会場となったオスロ郊外Lillestrømのノルウェー交流センター.

   200886日〜14日にノルウェーのオスロ市郊外のLillestrømにあるノルウェー交流センターNorway Convention Centre(第1図,Norway Trade Fairsとも呼ばれる)で第33IGCが開催された.IGC1878年の第1回パリ大会以来35年間隔(最近はオリンピックと同年)で21カ国を回って開催されてきており,日本でも1992年に第29回京都大会が行われたが,北欧で開催されるのは1960年の第21回コペンハーゲン大会以来2回目である.今回の参加者は6,000人以上,参加国は113(一説に115)ヶ国で,参加者の多い国は,米国,ロシア,中国,ドイツ,イタリア,英国,日本,スウェーデン,豪州,ブラジル,フランス,カナダなどである. 今回のIGCの総合テーマはEarth System Science: Foundation for Sustainable Development (地球システム科学:持続可能な発展のための基礎)であり,全体として環境と資源に重点が置かれている.今回は「今日のテーマ」として日毎に異なったテーマが設定され,それに沿った大きなシンポジウムが毎日開かれた.それら7つを列挙すると,「初期の生命,進化と多様性」,「気候変動−過去,現在,未来:人間活動の影響はどの程度か?」,「地質災害:社会は対処できるか?」,「水,健康,環境」,「急速に成長する世界経済における鉱物資源:自然の限界はあるか?」,「エネルギー間競争:未来のエネルギー構成はどうなるか?」,「地球とその外:宇宙への展望」である.
 

開会式では,ノルウェーのHarald 5世国王陛下がファンファーレとともに登壇し,英語で挨拶して開会宣言を行った(その全文はhttp://www.33igc.org/coco/からダウンロードできる).国際地学連合IUGS会長の張宏仁Zhang Hongren氏も短いスピーチを行った(因みに,IUGS副会長はオフィオライト研究で名高い米国のEldridge Moores氏).そしてノルウェーをはじめ,今回のIGCの共同開催国である他のノルディック諸国(スウェーデン,フィンランド,デンマーク,アイスランド,グリーンランド)の自然,地質,産業の紹介ビデオが上映され,歌,演奏,奇術などのアトラクションが披露された.その後企業展示・ポスター会場で歓迎懇親会が行われた.企業展示スペースは広く,特にロシアと中国が向かい合わせで威容を競っていた.日本の産業技術総合研究所地質調査総合センター(日本近海の立体海底地形図が見事だった)や国際統合深海掘削計画IODPのブースもあったが,前回(フィレンツェ)は多かった各大学の展示が今回はほとんどなかった.世界地質図委員会CGMW(委員長はフランスのJ.P. Cadet氏)のブースでは新しい地質年代表を売っていたが,前回は無かった「第四紀」がやや曖昧な形で正式に復活していた.しかし「第三紀」は復活の見込みがない(石渡,2006; 本誌92p. 10).このIGCで行われた口頭発表は約5000件,ポスター発表は約2200件であった.

2図 ノルウェー国有鉄道(NSB)の「33IGC行き」の表示(オスロ中央駅にて).

今回のIGC会場はオスロと空港を結ぶ鉄道の途中駅Lillestrømから徒歩5分の便利な場所にあるが,産業展示館とか見本市の会場といった作りの建物で,それを適当に仕切って講演会場が設置されていた(隣の声がよく聞こえた).このIGCはノルウェーなどの多くの企業が協賛しているが,中でも北海海底油田を掘削しているStatoilhydroは参加者全員の昼食ボックスを毎日供給するなど,力を入れていた.会場の食堂(に限らずこの国の物価)は目の玉が飛び出るほど高かったので,これは有難かった.またノルウェー国有鉄道(NSB)IGCを全面的にサポートし,車内でIGCの名札を示せばオスロと空港の間の鉄道(特急は除く)が無料で乗車でき,駅の電光板には「33IGC行き」の表示すらあった(第2図).

なお,次回2012年の第34IGCは豪州のブリスベンで開催される.また,2016年の開催国として南アフリカが選出された.
 


3図 太田昌秀先生近影.2006年北極点航海の講師としてヤマール号にて.

ところで,ノルウェー在住の日本人地質学者で忘れてはならない人がいる.現在は日本地質学会の会員ではないが,太田昌秀(おおたよしひで)さんである(第3図).太田さんは1933長野県大町市のお生まれで,1962年に北海道大学大学院で飛騨山地の研究により理学博士号を取得した後,1972年まで同大学の助手を勤められた.その間,1964-66年にノルウェーからの奨学金でオスロ大学Barth教授のもとに2年間留学,スピッツベルゲンのカレドニア造山帯の岩石を研究された.また1969-70年には第10北海道大学ヒマラヤ調査隊の副隊長を勤め,Geology of Nepal Himalayasを編著した功績により1972年に「北大山の会」とともに秩父宮山岳科学賞を受賞した.その後,1972年から2006年まで34年間にわたってノルウェー国立極地研究所の研究員(教授)を勤め,その間ほぼ毎年スヴァルバール諸島を中心にノヴァヤ・ゼムリアからカナダ北部の島々まで北極圏の探検調査に従事し,南極へも6回行き,2003年以後はロシア原子力砕氷船ヤマール号での北極点航海にも講師として6回参加し,計200篇以上の論文を公表した.現在は同研究所の嘱託上級研究員としてオスロ大学の地質博物館に研究室をもち,その近くにお住いである(メールアドレスはohta.yoshihide@getmail.no(日本語可)).太田さんはIGCの後半初日に,オスロを訪問した旧知の日本人地質学者数人を自宅に招いて歓待された.私はこの日に帰国の途についたため,この会には参加できなかったが,帰国後の太田さんとのやりとりの中で,極地探検家として有名なノルウェーのナンセン(第4図)が難民救済にも力を尽くしたことについて,太田さんがすばらしい文章を発表されていたことを知った.太田さんのこの文章は,我々が科学者として,人間として目指すべき方向を明確に指し示している.是非地質学会ニュースに転載させていただきたいとお願いしたところ,ご快諾を得たので,次に太田さんのこの文章を掲げる.なお,この文章は北海道大学の恵迪(けいてき)寮同窓会誌「恵迪」創刊号p. 114-1211995年)に印刷された「北極研究を通じて学んだこと;極地探検家ナンセンのヒュ−マニズム」を,太田さんが題名も含め今年の状況に合わせて若干修正されたものである.この転載を許可していただいた同誌の井口光雄氏に感謝する.
 

4図 ノルウェー2001年発行のノーベル平和賞100周年記念切手に描かれたナンセン(1922年受賞).正しくは「ノーベル」でなく「ノベール」と発音する.(太田先生提供)
[北極探検家、ナンセンから学んだこと 太田昌秀]


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2009年04月19日作成,2009年04月19日更新