北極探検家、ナンセンから学んだこと

 

太田昌秀(おおたよしひで)

ノルウェー国立極地研究所 嘱託上級研究員

日本地質学会News, 11巻9号8−10ページ掲載 (2008)
(太田昌秀先生及び日本地質学会の許可を得て本HPに再掲します)

[石渡ページ]  [第33回万国地質学会議IGC(オスロ)報告]


私は東京オリンピックの年に船に乗って初めてヨーロッパを訪ね、札幌オリンピックの年に家族でノルウェーへ移住して36年が過ぎた。この間にほぼ毎年23ヶ月は北極圏へ探険・調査に出かけ、南極へも6回行き、5年前に古希を越えた。今年(2008)はオスロで万国地質学会が開かれ、ノルウェーは世界有数の産油国としての面目を果した。1960年のコペンハーゲン総会の時には、会に出席された先生方のお話を札幌で大学院生として聞き、その4年後にオスロ大学のT.W.バルト先生の下へ留学し、大学の地質博物館で先カンブリア紀やカレドニア期の勉強をした。それから40年以上過ぎた2006年からは、また同じ博物館に一室を得て北極の勉強を続けており、ありがたいご縁に感謝している。

 

第1図.晩年のナンセン(1922)

 

19世紀末から20世紀初め、北欧の小国ノルウェーから世界に知られた人物が続出した;絵画のムンク、音楽のグリーク、2人のノベール平和賞受賞者、3人のノベール文学賞受賞者、数学のアーベル、低気圧理論のビヤルケネス、オーロラのビルケランド、岩石学のゴールドシュミット、それに極地探検家のナンセンやアムンセンなどである。彼らは皆、当時スウェーデンから独立しようとしていたノルウェーの高揚した時代精神の申し子であり、日本の明治維新にも似た時代であった。それらの中でナンセンは、探検家、海洋学者としてばかりでなく、政治家として人道主義を高く掲げ、世界の平和のために尽力した傑物であった(第1図)。

ナンセンの探検と学問

当時同じ王の下にあった隣国スウェーデンのノルデンショルが、187879年に行ったヴェガ号による北東航路(ロシアの北を廻る大西洋から太平洋への航路)の完航は、その時18歳だったナンセンには大きな刺激であり、彼は21歳の時アザラシ漁船に乗って初めて氷海の洗礼をうけ、27歳の年には4人の仲間と橇を曳いてグリーンランドを初横断した。

 ヴェガ号がベーリング海峡を南下するのと入れ違いに、アメリカの探検船ジャネット号が北極海へ入り、氷に掴まって2年間漂流した挙句、新シベリヤ群島沖で沈没した。隊員たちは橇を曳いてシベリヤ本土へ向ったが、大半は死亡した。この船の破片は3年後にグリーンランド南岸へ漂着した。それを知ったナンセンは北極海を横断する海流がある(当時はまだ北極周辺に大陸があると考えていた人もあった)と推定し、これを実証するために、氷に捉まったときその圧縮で押し潰されないで、氷の上へ押し上げられてしまう底が丸い船、フラム号(「前進」という意味)をつくり、新シベリヤ群島近くで氷の中へ入り込み、1893年から’96年にかけて、無謀だと言われたこの画期的な探検に成功した。その後は船の代りに大きな氷盤の上に研究基地を建設し、氷と一緒に漂流しながら北極海の内部を探る、という方法がほぼ百年にわたって行われた。これはナンセンの方法を踏襲したものである。フラム号の探検によって、北極海は深い海盆であることが証明され、ナンセンは最後の“大洋”を発見して世界の指導的な海洋学者になり、40歳代で国際海洋学会の議長も務めた。そしてそれまで沿海にしか棲んでいないと思われていたタラが、外海にも沢山いることを確かめ,北洋漁業に大きな貢献をしたりもした。
 

ノルウェーの独立と第一次世界大戦

ナンセンの探検は、スウェーデンの支配下にあった小国ノルウェーの名を世界に知らしめた。20世紀初めにスウェーデンとの対立が深まると、彼は探検で得た名声の上に立って、母国の独立のために力を尽した。国民投票が行われて独立の世論が高まると、両国は一触即戦の緊張に達した。ナンセンは政府の要請でデンマークへ赴き、王子夫妻を招いてノルウェー王室の実現に努め、近隣諸国の支持を取りつけて戦争を回避し、母国は血を見ずに独立を達成することが出来た(1905)。しかし独立を勝ち得ても、氷河が削った岩を苔が覆っているだけの痩せた北国では、周りの国々の援助なしに国が立ち行かず、それらの中で最も有力なイギリスへナンセンが初代大使として派遣された。

こうして独立前後の政治の中枢に巻き込まれた彼は滞英中に愛妻を失い、1910年には彼が北極探検のために造ったフラム号が、アムンセンを乗せて3度目の極地探検に向うのを自宅の屋上から見送り、しばらく海洋学の研究に専念したがこれは長続きせず、ヨーロッパは1914年から第一次世界大戦に入り、海洋調査どころではなくなった。

大戦中ノルウェーは中立を宣言したが、最大の輸出品である魚をドイツなどへ売る一方、小麦の不足はカナダ、アメリカに依存していた。そしてアメリカが連合国に参加すると小麦の輸入が止められ、ノルウェー国民は主食の不足に直面した。この時もナンセンは対米特別使節団の代表を委任され、大西洋の向こう岸で協定を結んで国民の危機を救った。

国際連盟でのナンセン

大戦が終るとその大惨状を反省し、再び破壊と殺戮を繰り返さないための話し合いの場として、「国際連盟」が生まれた。しかしここには小さな中立国や、革命で政体が変ったロシアは加盟できず、勿論、戦いに破れたドイツは排除された。ナンセンは小国の安全はこのような話し合いの場を通してしか守れないと考え、連盟の門戸を広げるために精力的に活動した。

戦いは銃声が止めば終りというものではない。その悲惨は戦場に夏草が生い茂っても続く。大戦が終った時、約50万人の戦争捕虜が各地の収容所に捕われ、それらの多くは飢え、凍え、病んでいた。革命の混乱に巻き込まれたロシアでは特に惨めで、彼らは自分の家族の生死も知らず、絶望の中で死につつあった。

生まれたばかりの国際連盟の最初の仕事の一つは、これらの捕虜を母国へ送還することであった。探検で発揮された粘り強さと統率力を買われて、ナンセンがこの仕事の責任者に推された。ヨーロッパは革命と反革命に引き裂かれ、全てが破壊し尽された状況の中で、彼の委員会は45万人の捕虜たちをそれぞれの母国へ送り返した。そしてこの事業で妻や子や母が、再会の喜びに泣かなかった国はなかった、とヨーロッパ中から感謝された。

 

第2図.ナンセン・パスポートと彼の肖像が入った証紙。

 

ロシア革命後の10年間は、戦争と政争による難民が150万人もロシアの近国へ溢れ出し、スラムをつくって伝染病が広がった。赤十字の要請で国際連盟は難民局を置き、その初代高等弁務官にナンセンが任命された。その後数年にわたる彼らの努力で、難民たちはそれぞれ生きていける所へ落ち着くことが出来た。これら難民の移動に際して、国境で区切られた国々の役人はパスポートを要求した。1922年、ナンセンは31ヶ国の代表を集め、連盟の難民局が発行する難民確認書をパスポートの代りとして認めることを承認させた。これには責任者であるナンセンの肖像を描いた証紙が貼ってあり、ナンセン・パス(第2図)と呼ばれ、数十万の難民がこれを提示して国境を越えた。日本では第二次大戦の頃、バルト海の小国の領事であった杉原千畝氏が、本国の指示に従わずに、数千人のユダヤ系難民たちにヴィザを発行したことが、人道的な美挙として賞賛されている。杉原氏はナンセン・パスポートのことをどのように思っておられたことであろう。

革命で亡命したロシアの貴族階層を受け入れ、共産主義を嫌った西欧諸国は、難民局の人道的な活動に協力せず、飢えた難民を見殺しにするのは反共のためだと弁解したが、辛うじて生き延びた人々は、ナンセンの難民局に心から感謝した。この頃の西欧の反人道的な冷たさが、その後半世紀にわたる東西対立の底にわだかまっていたと私は思う。
 

 

第3図.孤児たちへの給食を味見するナンセン(1921)

 

革命の混乱と重なって、1921年からロシアの穀倉地帯ヴォルガ川流域が旱魃に襲われ、八百万人の子供を含む三千万人が飢餓にさらされた(第3図)。ナンセンの難民局はレーニンのソ連政府を説得して、国際連盟を通じて借款を受けることを承知させ、貸し付けと食糧援助を西側へ要請したが、これらの提案は連盟の会議をたらいまわしされて結論が出されず、職業政治家の多くはナンセンが共産主義の手先だと誹謗した。その中でアメリカだけは募金活動に協力し、ナンセンはアメリカへ渡って援助を求める講演をして廻った。彼の誠意溢れる呼びかけに、ある新聞は、“彼が通り過ぎると、教会の塔でさえ夜中に頭をうなだれている”と書いたという。

大戦後もトルコとギリシャは戦いを続け、1922年にギリシャは大敗した。トルコに住んでいた数十万人のギリシャ人たちは、危険を感じて母国へ逃れ始めたが、石灰岩ばかりの痩せた母国には彼らを受け入れる余地はなかった。そこでナンセンは、マケドニア地方に住んでいた五十万人のトルコ人と、逃れてきたギリシャ人たちを、人も財産も含めてそっくり入れ替えることを提案した。そして殆んどの人が不可能だとしたこの難事業を、両国を説いて8年で成し遂げ、借款を世話して新耕地を開き人々に生きる手立てを与えた。
 

古く景教と呼ばれた時代から回教圏の中に孤立して、特異なキリスト教を守ってきた中央アジアのアルメニア人たちも、トルコの圧迫とロシア革命の間にあって、惨めな亡国の危機にあった。戦乱を逃れた人々は、周辺のシリア、パレスチナ、イラン、イラクなどを放浪して生死の境にあった。ナンセンは連盟にアルメニア援助を要請したが否決され、憤慨して辞表を叩きつけた。しかし連盟は彼の辞表を受け取ろうとはせず、かと言ってアルメニア人を助けようともしなかった。そこでナンセンはまた、民間の善意に訴えてこの援助を進めなくてはならなかった。この10年余の難民局での活動の間、彼は全く報酬を受けず、ノベール平和賞(1922)の賞金をはじめ、私財まで活動につぎ込んだ。

こうしてナンセンは、若い時には思ってもみなかった国際政治の場で、自殺行為だといわれた北極探検を成就させた計画性と不屈さで、正真のヒューマニズムを貫き、威信とか既得権にこだわって、妥協してごまかす国家の代表者たちには出来ない偉大な仕事を成し遂げた。

平和とは信頼を築くこと

再不戦の悲願をこめてつくられた第一次大戦後の国際連盟も、第二次大戦後の国際連合も、実際には戦勝国の覇権争いの場になり、本当に平和のために誠意を尽したのは、覇権に縁のない小国であった。特に第一次大戦後の国際連盟が、人々の支持を辛うじて繋ぎ止められた理由の一つは、ナンセンらの難民局の活動であった。

 オスロ郊外には、ナンセンやアムンセンが北極と南極で使ったフラム号を、海岸に引き上げた博物館がある。かつては館内の2階回廊に沢山の極地の油絵が掛っていた。これらは定年後フィンランドで画家になったロシアの元赤軍軍医将官が寄贈したもので、彼は青年時代にナンセン難民局の援助で生き延びた世代の一人であり、老後自分の絵の中から数十点を、かつてのナンセンらの援助へのお礼としてこの博物館へ寄贈した。

 私は1970年代からしばしばサンクト・ぺテルスブルグ(当時はレニングラード)を訪ねる機会があった。ある時友人たちが郊外の昔のツァーの離宮に宿を見つけてくれた。ペトロゴッフというこの宮殿は大戦中ドイツ軍に占領され、建物の内部は完全に破壊されたので、ソ連時代にはサナトリウムとして使われていた。私はその一画に泊めてもらったが、幸い同じ建物に外国語の翻訳をしていたという老女がいて、ロシア語のできない私を助けてくれた。彼女は世が世なら、私如き百姓の倅はとても近づけないような、高雅な雰囲気をもっていた。一緒に早朝の散歩などをして極地探検の話がでた時、彼女は“私は女学生の頃、ナンセンのような人と結婚したい、と真面目に思っていました。私たちの世代のロシアの女の子にとって、ナンセンは思想や国境を越えた理想の男性でした。”と話してくれた。 

1990年代に赤十字と国連の援助でアルメニアに大きな病院が建設され、その名称を住民に募集したところ、“フリッチョフ・ナンセン病院”と名つけられた。アルメニアでは今もファースト・ネームを“Nansen”という人が多いという。2003年にはモスクワのロシア赤十字前の小広場に、ナンセンが難民の子供たちと手をつないでいる銅像が建てられた。これはこの年83歳だったあるロシア人が、数十年かかって費用を集めて造ったものであった。このようにロシアやその周辺の国々では今もナンセンは敬慕されている。ナンセンの母国でも、2005年の独立100年記念に行なわれたノルウェーの偉人投票では、第二次大戦中の国民統合の中心だった国王を抜いて、ナンセンが第一位に選ばれた。

話は飛躍するが、このようなナンセンへの敬愛と彼の母国であるノルウェーへの信頼が、第二次大戦後の新しい国際連合の初代事務局長に、ノルウェーのトリグヴェ・リー氏を選出させた一因だった、と私には思われる。岩の上に苔しか生えていない貧しい小国(その頃は、まだ海底油田は発見されていなかった)ノルウェーの亡命政府の外務大臣が、世界の新秩序を建設する機関の最高責任者に選ばれるということは、個人の資質以上のことである。第一次大戦後の捕虜送還で、ヨーロッパ中の妻と母に喜びの涙を流させ、西欧に白眼視されていた革命ロシアの三千万人を飢えから救い、混乱した中近東の百数十万の人たちに生きる場所と仕事を与えたナンセンらの貢献は、彼の国の人ならきっと第二次大戦後の平和構築に利己心なく尽してくれるだろう、という信頼が背後にあったと思う。

1993年には長らく世界の争乱の焦点になっているイスラエルとパレスチナが、話し合いのテーブルにつくという画期的な合意が調印され、オスロ・チャンネルとして注目された。その後も対立は続いているが、話し合いへの糸口の一つを見つけた意義は大きかった。この話し合いの困難な過程を思うとき、かつてナンセンが、ギリシャやトルコ、アルメニアなどの中近東の人々に尽した努力が思い出される。ここでも話し合いの仲介者が、ナンセンを生んだ国ノルウェーの人であったからこそ、対立する両国の人々が心を開いて、深い話し合いをすることができたのであろう。百年前のナンセンの貢献が、現代の政治の背景に生きている、と私には思われる。

私はこの国での40年近い極地研究で、科学の分野でも国際共同研究では、関係国の間でそれまでに築かれてきた信頼関係が、とても重要であることをつくづくと学んだ。まして歴史と文化が異なる人々の間の平和の問題で、何よりも大切なことは相互理解と信頼であり、独り良がりの正義を押し付けてはならないと思っている。

110年前ナンセンの探険によって知られるようになった北極海は、今は地球の気候変動や汚染のセンサーとして注目されている。昨年からの北極海の海氷の減少は急速で、かつてナンセンらがフラム号で3年かかって横断した北東航路や、カナダ・アラスカ側の北西航路も今年(2008)8月末には氷がなく、IPCC2070年と予測した北極海の海氷の消滅は、最近のアメリカの予測では今から5年後とされている。このような温暖化の原因が温暖化ガスだろうが、銀河放射線だろうが、あるいは地球軌道変化のサイクルであろうが、今北極海の氷が減少してシロクマが飢え、汚染が進んでいるのは事実である。事態がこのまま進めば、世界の気候や生態系に大きな影響が現れるだろう、と心配されている。たとえ一部でも人間の手で温暖化や汚染の集積がスローダウンできるなら、今はそのためにみんなが努力しなくてはならないと思う。昨今取り上げられている脱炭素技術、資源の倹約や有効再利用、汚染の防止や新エネルギーの開発などは、たとえ寒冷化になっても役立つことである。

北極海航路を使えば、日本からロシア北西・ノルウェー大陸棚石油産地への距離が、ペルシャ湾までの距離と同じになる。日本がいつまでも欧米の後にくっついて、中近東の紛争地域でウロチョロしている間に、ロシアは北極点の海底に旗を立てて、広大な大陸棚領有の意志を示し、他の沿岸諸国との間で領海資源の分捕り合戦が始まっている。ナンセンの探険によって明らかになったこの地上最後の大洋も、人間の浅ましい利益追求と覇権争いの餌食になるようである、人間には結局「欲」を乗り越える叡智がないのであろうか?

(この文は19951月初出、20088月加筆)


 この文章は北海道大学の恵迪(けいてき)寮同窓会誌「恵迪」創刊号p. 114-1211995年)に印刷された「北極研究を通じて学んだこと;極地探検家ナンセンのヒュ−マニズム」を,太田さんが題名も含め今年の状況に合わせて若干修正されたものである.この転載を許可していただいた同誌の井口光雄氏に感謝する.(石渡 追記)


[石渡ページ]  [第33回万国地質学会議IGC(オスロ)報告]

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2009年04月19日作成,2009年04月19日更新