人社サロン|三太郎の小径

TOHOKU UNIVERSITY

瀬川:中国の農⺠社会の研究、中国の⽂化⼈類学というのは、他の中国研究に比べれば歴史が浅いです。中国の歴史学、中国⽂学の⼈とか中国哲学の⼈から⾒れば、レベルの低いアプローチだと思われていたので、そういう中でいかにその特⾊を出していくか、他の分野の⼈たちからも⼀⽬置かれるような研究をしていくか、とても悩むところでした。特に歴史学はその蓄積も多いですから中途半端なことを⾔うと常にお叱りを受けて、ちゃんと資料を読んでいないんじゃないかとか、基本的なことを知らないんじゃないか、と常に⾔われるので、ある意味ではそういう従来からの中国⼈・⽇本⼈が⾏ってきた研究では扱われてこなかったこと、あるいはあまり注⽬されてこなかったこと、それからあまり⾒えなかったこと、そういうところを掘り起こして特化して研究してきたということにはなったかと思っています。

:今では歴史の研究者も、⽂化⼈類学のアプローチに着⽬したり、瀬川先⽣の研究に注⽬していると私は思っていて、そういう意味では両者のコラボレーションができてきたのかなという印象をもっています。

千年もの系譜のつながりを持つ
宗族とは何か

:次に研究内容についてです。先⽣の研究というと⼀つは中国の宗族の研究、それからもう⼀つはエスニシティという2つの柱になっていますね。

瀬川:宗族についてですが、⽂化⼈類学的に宗族が研究対象の⼀つであるというのは正しいのですが、私としては自分の研究が宗族研究だという⾔い⽅はしていません。⼈類全体の中で、ある普遍的な意味を持ったものとして親族・家族をとらえているというのが基本で、その中の⼀例として宗族がある、という⽴場です。

中国の宗族についてひと⾔解説を加えれば、⽗親─⼦供、⽗親─⼦供という⽗系の⾎のつながりだけで親族関係をたどり系譜関係をとらえていくものです。⽇本でも親族組織として⼀族とか、同族とか、⼀⾨とか⾔います。⽇本と中国の親族関係も親族間の倫理のようなものでは、かなり共通したものを持っています。中国から⽇本が影響を受けて取り⼊れたものがたくさんありますから、もちろん共通性はありますけども、基本的なところはかなり違っています。宗族は、かなり厳格に⽗系の出⾃をたどりますが、⽇本の場合は⽗系ということについては⾮常に曖昧です。そういう⽐較の視点というのが常に⾃分の中にあって、宗族はどんな特⾊を持っているのかということを研究しています。
⽗系親族を連続してたどる社会というのは実は世界中にたくさんあって、それは⽂化⼈類学の古典的な研究の中でよく研究されてきました。それらとの⽐較で中国はどんな特⾊を持ってるかというところが出発点としてありますが、それと同時に、⽇本との⽐較というのも重視して研究してきたつもりです。

:その研究を拝⾒すると、この宗族の成員の⼈たち、メンバーの⼈たちは、実際には同じ村に暮らしているのかというと、そんなことはなく遠くに移って、離れていたりします。にもかかわらず、過去数百年あるいは2000年以上にも及ぶようなつながりを強く意識していて、そのこだわりに⾮常に感銘を覚えたんですね。先⽣は実際に⾹港や広東省、海南島などで調査されていますが、このようなこだわりはどこからきているのか、あるいは⼈類の⽂化という観点ではどのような意味を持つのでしょうか。

瀬川:そもそも、そういった遠い祖先を認識して関係性を重視することが可能になるためには、当然ながらその記憶やあるいは記録がないといけません。伝承のしくみがまったくなければ、遠い何世代も前の祖先のことなど何もわからないで終わってしまいます。⼝頭の説話で伝えたり、あるいは謡(うた)として伝えたり、伝承のしくみを⼈類はいろいろ持っていますが、中国は⽂書の国ですから、族譜というものが古くからありました。
ただ中国がいくら歴史⽂書の国だといっても、同じ書き物として千年以上も先祖代々伝えてきたものが残っているということはないと思います。どこかに関係ありそうなものを後から⾒つけ出して、それをつなげて書く。後付け的に遡って⾃分の祖先を探し出して、それを遡及的なやり⽅で繰り返して、世代をつなげてきた。その結果として、祖先について比較的明確な意識をもつことにつながっているのだと思うんですね。
もちろん⽂字だけではなく、なんらか⼿がかりになるようなもの、お墓であるとか、建物やモニュメントも含めて、祖先を記憶し続ける、記録し続けるようなデバイスが中国社会にはあったので、それらも活⽤されたと思います。

:そうした、歴史を遡ってまで族譜のようなものをつくっていこうという動き、いわば⼀族の中のプロジェクトのようなものが、ある時期⽣まれてくる、その動機というのはどこからくるのでしょうか。

瀬川:そこは難しいところで、私の研究の中でも⼤きな問題意識をもってきたことの⼀つです。いろいろな要因があると思っています。その⼀族が⼟地のような資源を占有して⽣活している場合は、その権利関係を明らかにするため、彼らはほんとうに同じ祖先から別れた⼦孫なんだろうか、ということを調べて族譜が書かれるということはあります。
でもそれだけではなく、より広く社会的な⼈間関係を広げていくと、社会の中でのリーダーシップに近づくという価値観があったと思います。前近代の⽂⼈がまさにそうだったと思うんですが、社会のエリートとなればなるほど⾃分の祖先を明らかにして⾃分の親族関係でつながった⼈間を明らかにして、広い社会関係をつくっていく。そういうスタイル⾃体が社会の上層の⼈間であることにつながる、そのような連関がそこに働いたんだと思うんですね。族譜づくりには、そういう社会関係を⽣み出すツールという側⾯もあったのだと思っています。

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移動してきて同じ村に住み始めた
その事実が出発点

:この宗族の研究でもう⼀つのキーワードは、移動ではないかと感じています。客家と⾔われている⼈たちも、基本的にどこかから移動してきた歴史を強く意識していて、そことのつながりを明確化、可視化しようとするような姿勢があるという論考だったと思います。華僑もそうですよね、外へ出ていって、出ていった⼈たちが経済的に成功して国に仕送りをするなど、やはり移動が強く介在しています。こういった宗族という現象と移動との関係はどのようにとらえたらいいのでしょうか。

瀬川:宗族を観念的に⾔えば、共通の祖先からの系譜関係がわかっているものすべて宗族なわけで、何千年昔の祖先でも系譜関係が全部わかっていればその⼦孫全体が宗族と捉えられるわけですが、実際はそんなことはできないです。同じ姓を持っている⼈でもどこで分かれたかなんてわからない⼈が中国中に散らばって住んでいるわけです。そうすると実際の宗族として捉えること、トレースすることができる範囲は何かというと、ある程度同じ地域にいる⼈たちということになります。
つまり過去の移住によって同じ村に⼊ってきて、そこから⼈が増えて⼀つの親族としてまとまりを持ってきた。それが実際の宗族と捉えられる部分です。観念上はもっと遡ったところにも同じ⾎のつながりのある⼈たちがいるはずで、それも全部宗族なはずなんですが捉えられない。そうすると実際に移住して同じところに住み始めた祖先、「始遷祖」とか「開基祖」と⾔ったりしますけど、そういう祖先の移住が⾮常に重要になってきますね。