人社サロン|三太郎の小径

TOHOKU UNIVERSITY
対照的な2人の中国研究者の存在
瀬川研究との関係は

:先⽣は中国の研究について、フリードマンと陳其南(ちん・きなん)という⼆⼈の研究者について対照的に論じていますが、それでは先⽣は最終的にどのあたりを⽬指そうとしているのでしょうか。

瀬川:究極的な質問ですね。私にとっての中国研究というのは、あくまでも他者研究なんですね。先ほど⾔いましたように⽇本⼈として中国の親族組織を⾒ると違う点が⾒えてくるというように、他者研究として研究している以上は、中国語の概念あるいは中国の古典的な観念に結びつけて解釈してそれで終わりではないと思うんですね。⼈類学の究極の課題になるのですが、⼈類がやっていること、そのさまざまなバリエーションの中で中国の伝統というのはどんな位置付けになるのか、どういう特⾊があるのか、ほかと共通しているのか、すごく変わっているのか、そういう⽬で、中国の宗族にしてもエスニシティにしてもとらえていくという視点になります。
先ほど名前の上がったモーリス・フリードマン(Maurice Freedman)というのはイギリスの社会⼈類学者で宗族を研究した⼈です。陳其南も宗族について深く研究してますが、彼は台湾の⼈ですけど、中国文化を自文化として身につけた者として中国⼈の基本的な考え⽅や観念によって宗族を説明しようとしている⼈です。
そういう意味では両者は対極にあるわけですけど、私は深い理解という意味で⾔えば陳其南さんの⽅がそれは中国文化を自文化として身につけている⼈ですから、こういう観念に基づいてこういう⾵習があるんだとか、こういう⾏為が⽣じるんだとか、こういう考え⽅になるんだ、という⼀段深い分析ができていると思うんですね。
その点、フリードマンの⽅は外国⼈が他者として⾒ているので、どこか解釈を間違ったり浅い部分はあると思います。ただ、内側から内側にあるもので解釈するんじゃなくて、外側から解釈するとどうなるかっていうそのきっかけをつくったという点では⾮常に⼤きな功績があったと思います。
私はあくまでその外側からの視点で、より深い理解を⽬指そうと、そういう⽴場でやってきたつもりです。

:冒頭にふれたように⽇本には漢学の伝統があって、われわれは中国のことをわかっているんだという⼈もたくさんいたんだと思います。先⽣は外側から⽇本⼈として中国を研究されていて、⽇本の中国認識のあり⽅に対して、何かお考えがあるのではないかと思うんですが。

瀬川:何か申し上げるほど深く⽇本の漢学研究の伝統を引き継いでませんので、私の⽅からはありません。世代的なものもあると思うんですね。私が中国研究を始めた頃は⽇中国交回復5年とか7、8年経った後ですから、ちょうど中国がフィールドとして開かれつつある雰囲気でした。それ以前というのは、中国研究者といえども中国に実際に⾏けない、だから⾃分は中国には⼀度も⾏ったことがないけれども中国のことを中国⼈よりもわかってるぞというような⼈が多かったですね。私より上はそういう世代ですよね。だけど私の世代はそういう漢学の伝統にある意味では無知のまま育った世代だけれども、新たに中国が開かれ始めたっていう、そういう雰囲気の時でした。
ちょうど NHK のテレビで⾔えばシルクロードの特集(1980年放送開始)がありましたけど、ああいうもので中国が、新たに⽇本⼈に提⽰され始めた時代の申し⼦ですから私は。そういう雰囲気の中で始めたので、古い中国研究の伝統についてはあえてふれないで、まっさらな状態で始めましょうという感じはありました。
ただそれでは済まされないぞということが歴史学者の⽅とか中国哲学の⽅とか、⽂学の⽅とかからお叱りを受けつつ嫌というほどわかって、やはり深く中国を対象にするんだったら古典のことも⼀通りはわからないとやれないんだなっていう恐ろしさは後から気がついたことですね。

人間とは何か、自分とは何か
問い続けていくこと

:それでは最後に、中国をフィールドとする⽂化⼈類学者として、読者や⽂化⼈類学を学ぶ⼈たちに、どんなことを伝えたいとお考えでしょうか。

瀬川:中国については、最近の⽇中関係には政治的な問題もあるので特に若い世代の⼈が中国に対する興味をどのように持つのかということは⾮常に⼤きな課題だと思ってるんですね。時事的な話題、経済成⻑がどうだとか軍事的な拡大がどうだとかというそういう話題だけではなく、中国の⼀般の⼈たちがどういう⼈たちか、どういう考え⽅をする⼈たちなのか、どんな⾵習を持っているいる⼈たちなのか、そういう等⾝⼤の中国⼈像というものにぜひ興味を持ち続けてほしいし、またそういうものを研究者が発信し続けることも必要なんだろうなと思っています。

また中国を離れて私が⼀つ申し上げたいのは、私が研究しているのは⼈間、つまり⼈類学ですけど、⼈間とは何か⼈類とは何か⾃分とは何かということを問い続ける必要があると思ってます。⼈間が⽝、猫、⽜や⾺とかと違うとこは、やっぱり⾃分とはなんなのかということを考えちゃうんですよね、そこだと思うんです。⾃分は個⼈としての⾃分でもあり、⼀⼈の⼈間として⽣まれた存在でもあるのですが、その⼈間って何かっていうことであって、通常は⾃分は⼤学⽣であるとか、東北⼤の⼤学⽣であるとか有名企業の社員であるとか、⽉収や年収がいくらであるとか、そういうことで⾃分はそういうものだと思っている。それさえあれば社会の中である役割とプライドを持って⽣きていけるし、資本主義的な再⽣産の連関の中で経済的にも富にあずかれる、だから⽣きていくには充分だと思うんですけど、それだけでいいのかと私だったら思います。せっかく⼈間に⽣まれたからには、⾃分が何なのか、⼈間としての⾃分とは何なのかということを死ぬまでにある程度わかって死にたいと思うんですね。完全にわかることは不可能だっていうことは思い知らされていますが、しかしそれを問い続けて少しでもわかってこの⼀⽣を終えたいなとは思っています。で、それをすることはまさに⼈類学であって、その意味ではこの⽂化⼈類学という専⾨を私が40年続けてきたことについては⾮常に幸運なことだったなと思っています。そのことについては微塵も後悔はありません。⾮常に幸福感がありますね。だからその幸福感のおすそ分けみたいなものができればなと、とくに若い⼈にはしたいなと思っています。別に⽂化⼈類学者になれと⾔ってるのではなくて、そういう問いを持ち続けていただければと思っているわけです。

:時間がまいりましたので終わります。本日はどうもありがとうございました。

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川内講義棟の階段教室にて