東北大学東北アジア学術交流懇話会

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モンゴル人が使う文字

モンゴル人は、現在、主に二種類の文字を用いています。モンゴル国では、1946年の文字改革まで、ウイグル式モンゴル文字と呼ばれる文字を使っていました。13世紀にウイグル文字をもとに作られたもので、タテに左から右へと行を進めていきます。表音文字で、漢字のような表意文字ではありません。文字改革以後は、ロシアのキリル文字でモンゴル語をあらわすようになりました。ウイグル式モンゴル文字は、発音と表記が英語のようにずれてしまっているので、モンゴル国の標準語であるハルハ方言にあわせて、発音通りにあらわすことができるようにしたものです。中国内モンゴルのモンゴル人たちは、今でもウイグル式モンゴル文字を使っています。モンゴル国では、現在でもウイグル式 文字の方が書きやすいという年配の方が見られます。でも大多数の人々は、キリル文字になじんでいます。1990年以後一時ウイグル式文字の復活が試みられましたが、うまくいきませんでした。逆にかつて内モンゴルでもキリル文字の導入が試みられましたが、これも中止されています。ですからモンゴル人は、中国とモンゴル国で別々の文字を使っているわけです。モンゴル人の挨拶「サイン・バイノー」をキリル文字とウイグル式文字で書くと次のようになります。

東北大学 東北アジア研究センター教授(東洋史・モンゴル史) 岡 洋樹


キリル文字。
 

 ← ウイグル式文字。


写真1:モンゴル国のキリル文字による刊行物。

 


写真2:モンゴル国で出版された国語辞典。
キリル文字とモンゴル文字で題名が書かれている。





モンゴルの文字史

 モンゴル国のモンゴル語がロシア文字で表記されていることはよく知られている(写真1)。これは、1946年に伝統的な縦書きのモンゴル文字に代わって採用されたもので、中国内のモンゴル族の間では、今も伝統的なモンゴル文字が使用されている(写真2)。ここでは、チンギス・ハーンの時代から現在に至るまで、多彩な変遷をたどった、モンゴル族の“文字の歴史”を概観してみたい。


写真1:モンゴル国のロシア文字表記モンゴル語:『児童百科事典』(ウランバートル、2003)の前書き。上部中央は国旗にもあるシンボルマークの「ソヨンボ」

 


写真2:中国内のモンゴル族が使用しているモンゴル文字:『蒙古学百科全書』(フフホト、2004)の前書き


その前史 ― 解読進行中の契丹文字

 中国の史書『遼史』によれば、契丹文字は、契丹を統一した遼の太祖である耶律阿保機(ヤリツアボキ)が、920年に創案した。しかし、肝心の“契丹文字”がいかなる文字であるかに関しては、中国の書物中に僅か数個の複写が見られたにすぎず、その実体は長い間不明であった。
 1922年、ベルギーの宣教師ケルヴィンによって、遼の皇帝の陵墓が発見されるに及んで、契丹文字の研究にも大きな光が当てられるようになった。これは、現在の内蒙古自治区の興安嶺に近いワール・イン・マンハ(白塔子)にある「慶陵」と呼ばれる遺跡で、ここから発見された遼の皇帝や皇后の石碑四基には、契丹文字で墓誌銘が記されていた。写真3に見るように、契丹文字は漢字に範をとって作られた文字であり、そこに記されていた契丹文字は延べ約3000字にのぼる。
 以来今日まで、この文字をなんとかして解読しようという、各国の研究者による様々な研究が行われてきた。その中で真に解読の扉を開いたのは、1970年代から始まった内蒙古大学の研究班の研究であり、現在100字以上の契丹文字の音と意味が解明されるに至っている。
 解読された契丹文字の意味と音の結びつきをみると、基本的な数詞や十二支の動物、天体や親族名称など身の回りの基本的な名詞にモンゴル語と音の類似した語が散見されるのである。これによって、契丹語がモンゴル語と同じ系統に属するか、そうでなくても契丹族とモンゴル族が極めて緊密な関係をもって交流していたことが考えられる。
 契丹文字の解読が更に進み、モンゴル語と同じ系統に属することが明らかになれば、モンゴル語の歴史はもう300年ほど時代を遡れることになる。契丹文字に関しては、最近の30年間に新しい資料が次々と発見され、研究は長足の進歩を遂げつつも、その解読作業は今現在もまさに進行中である。


写真3.契丹文字の碑文

 


最古のモンゴル語碑文 ―チンギスの石

 写真4は「チンギスの石」と呼ばれる石板とその碑面の拓本である。石板は高さ2メートル、巾66センチ、厚さ22センチメートルの大きさで、表面には、モンゴル文字の最古の記録が刻まれている。
 この石碑は1818年にロシアの研究者スパスキーが東シベリアのネルチンスク付近で発見したもので、現在はサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に保管されている。碑文が刻まれた年はチンギス・ハーンがサルトール(回教)の民に遠征して帰還した1224年、もしくは1225年とされる。
 モンゴル文字は、縦書きで、行は左から右に進む。碑文の文章を行ごとに逐語訳すると、次のように読むことができる。
@ チンギス・ハーンが
A サルトールの民を攻めて宿営し、全モンゴル国の
B 諸公がボハ・ソジガイに会した時、
C イスンケは弓を射るに335尋(ひろ)
D に遠射せり
 碑文の第1行目と第4行目が他の行より一段と高くなっているのは、それぞれチンギス・ハーンとイスンケという人物を敬ったもので、中でも1行目のチンギス・ハーンの方が格が上であることが分かる。
 ここに出てくるイスンケは、チンギス・ハーンの甥にあたる。イスンケの父、すなわちチンギス・ハーンの弟のカサルも、後世に語り継がれる強弓の伝説をもっていた。1尋(モンゴル語で「アルダ」)は両手を広げた長さを基本にした単位で、慣習的にはおよそ1.6メートルとされる。これをそのまま335尋に換算すれば536メートルになる。この距離は、当時のモンゴル人にとっても歴史に残る遠射として賞賛され、永久に記録されるべき偉業だったと思われる。
 モンゴル文字で書かれた最古の記録が、弓の名手を称える文章だというのは、誠にモンゴルらしい話ではないか。


写真4.チンギスの石(左)と、その碑文拓本

 


二つの文字伝説―チンギス汗、文字を知る

 モンゴル人はこの文字をウイグル人から借りた。ウイグル人たちはもともと、この文字をアラビア文字と同じように横書きで、右から左へ綴っていた。これがモンゴル語を写す際に、全体を左に90度回転して縦書きとなり、行の進行方向もそのまま左から右に進むようになった。
 ウイグルの文字がモンゴルに伝わったいきさつについては、次のような言い伝えがある。
 時は1204年、当時まだテムジンと称していたチンギス・ハーンがタヤン・ハーンの率いるナイマン王国を討った時のことである...
 「モンゴル族はタヤンの宰相でウイグル族出身のタタ・トンガが敗走しているのを捕え、彼が所持していた黄金の玉璽を得たが、彼はその保管役であった。テムジンは彼が面前に引き出されたのを見て、その器具を持ってどこへ行くのかと問うた。このウイグル人は、この印璽は自分の君主から委託されたものであって、これを相続すべき家族に手渡したいのだと答えた。テムジンはその忠誠を称賛し、ついでこの印璽の使途は何かと問うた。タタ・トンガは答えて、『わが主君は金銭または穀物を徴収するとか、自分の臣下のだれかに特許状を与えようと思うときにはいつでも、その真正であることの証明としてその命令書にこの印璽を捺すのである』と述べた。テムジンはタタ・トンガにその監守を命じ、以後、自分の名義で使用することとした。また、テムジンはタタ・トンガをして自分の諸子にウイグル語およびウイグル文字、ならびにウイグル族の法制・慣習をも教えさせようとした。」(ドーソン『モンゴル帝国史』)
 この伝承によれば、モンゴル族で最初に文字を習ったのはチンギス汗の諸子ということになる。
 タタ・トンガが護持していたのは、一体どのような印璽であろうか?それを彷彿とさせるのは、モンゴル帝国の第3代皇帝グユク・ハーンの印璽である(写真5)。これは、1246年にグユク・ハーンからローマ法王イノセント4世に宛てて送られた書簡に押された印影である。
 モンゴル語は、左の行から次のように読める。
 @永遠なる天の
 A力のもとに、大モンゴル
 B国の大海なる
 Cハーンの詔。異なる
 D民に達すれば、
 E信ずべし、恐るべし。
 ちなみに、この書簡を届けたのは、当時中央アジアを往復した修道士のプラノ・カルピニである。
 これと並んで、モンゴルにはもう一つの文字伝説がある。それは後にパスパ文字を作ったパスパの伯父、チベットの仏教僧のサキャ・パンディタが文字を作ったという言い伝えである。
 これによれば、13世紀の中頃、ゴダン王子の依頼でサキャ・パンディタがモンゴルに滞在していた時のことである。彼が文字を作ろうと夜通し瞑想にふけっていたところ、明けがた、皮なめし棒を肩に担いだ一人の婦人がやって来てパンディタに礼拝した。その皮なめし棒の形状に啓示を受けてモンゴル文字を作った、というのである。革なめし棒とは、皮革をなめすために鋸の歯のようなキザミ目の入った板で、その形がいかにもモンゴル文字のギザギザに似ているところから作られた伝説であろうが、後者の話は前者に比べると真実味に乏しい。


写真5.グユク・ハーンの印章(実寸は縦横14.5cm)

 


“国字”の制作 ― パスパ文字

 「およそ偉大な国家というものは独自の文字を持たなければならない。」こう考えたのは、2回の元寇で日本とも縁の深い、元の世祖すなわちフビライ・ハーンである。彼は、モンゴル語がウイグル文字を借りて書かれることに不満だった。思えば昔の遼(契丹)も、金(女真)も独自の文字を持っていた。今までは戦役に明け暮れて文字を作る暇もなかったが、今や文化興隆の時代である。
 1269年、フビライ汗はチベットのラマ僧パスパに“国字”の制作を命じた。パスパはチベット文字に範を取り、装飾文字にも似た角ばった文字を作り、これをもってハーンに献じた。これが製作者の名をもって呼ばれる「パスパ文字」である。また文字の形状から「方形字」とも呼ばれている。チベット文字は左から右に綴る横書きであるが、パスパ文字は上から下へ、行はウイグル式モンゴル文字と同様、左から右に進む。文字は一音節ごとに区切って綴られる。
 この新しい“国字”を普及させるべく、フビライ・ハーンは度重ねて詔勅を発したが、実状は形式的なところにとどまり、あまり徹底されなかったらしい。それで1368年に元朝が滅びるとともに、パスパ文字も人々の心の中から忘れ去られてしまった。この文字が制作されてからちょうど100年間、元朝とともに生まれ、ともに消えていった文字であった。
 写真6は、元朝の時代の駅站通行証である。モンゴル帝国の第2代皇帝オゴデイ・ハーンが帝国内の通行路を整備し、伝令の馬や食料の補給を行うために各地に站(駅)を置いたことは有名である。伝令は牌子(パイズ)と呼ばれる通行証を持ち、それによって自由に馬や食料、宿泊所を調達することができた。通行証は金、銀、青銅、鉄などの金属製で、形も円形や角の丸い長方形状のものが知られている。
 写真の牌子は、鉄製で、直径11.5センチの円形で、表面は金箔。5行のモンゴル語がパスパ文字で書かれていることから元朝時代のものであることが分かる。行は、モンゴル文字と同様に左から右に進む。記されているモンゴル語を行ごとに訳すと次のように読むことができる。
@永遠なる天
Aの力のもとに
Bハーンの詔。誰ぞ
C信じざれば
D殺められるべし

 


写真6.パスパ文字:元朝時代の駅逓通行証

 


ウイグル文字の改良とオイラート文字

 元朝の100年間にわたる、パスパ文字の「国字」としての支配にもかかわらず、ウイグル式モンゴル文字は、その後モンゴルの「民族文字」としてより広く用いられるようになった。
 特に16・17世紀、モンゴルに仏教が浸透するに及んで、チベット語から多数の仏典が翻訳されてモンゴル文字で木版に印刻され、出版された。同時にモンゴル人自身も、この文字で多様な著作活動を行い、モンゴルの「仏教ルネサンス」と呼ばれる時代が到来する。
 こうした動きに伴い、13・14世紀のウイグル式モンゴル文字も字形が整理され、書き言葉としてのモンゴル語の正書法や文法もより一貫した形に統一される。モンゴル文字の改良は、時代や地域によってさまざまな試みが伝えられるが、ここでは二つを紹介しよう。
 一つは、ハラチン族出身のアヨーシ・グーシと呼ばれるラマ僧が、仏典を翻訳する際にモンゴル語に無い音を表記するために、モンゴル文字を変形したり、補助記号を加えたりして、新しい字形を付け加えた。1587年に制作した新しいモンゴル字母は、「アリガリ」文字と呼ばれる。
 写真7は、印度の古代の仏典を表記している梵(サンスクリット)字の字母に合わせて、各種言語の文字表記を対照させた『同文韻統』という書物の一頁である。上の段から順に@梵字Aチベット文字B満洲文字Cモンゴル(アリガリ)文字D漢字によって、梵字に対応する音が示されている。
 もう一つは、西モンゴルのオイラート族における仏教の布教のために、1648年にラマ僧ザヤ・パンディタが作成した文字で、「オイラート文字」或いは「トド文字」と呼ばれている(写真8)。
 「トド」はモンゴル語で「明瞭な」を意味する。トド文字もモンゴル文字をもとにそれらを変形したり、補助記号を加えたりしたものであるが、当時の口語の発音を写すべく、原則として一音に一字があてられた。この文字は、モンゴル文字では区別されなかったo と u、ö ü 、t と d、g と kなどを字形によって区別したので、それまでの曖昧性が解消された。トド(「明瞭な」)文字と呼ばれた由縁である。
 このほか、変り種としてはソヨンボ文字の存在が知られている。 ソヨンボ文字は、1686年にハルハ(今のモンゴル国にあたる)のザナバザルというラマ僧によって梵字を手本に作られた(写真9)。サンスクリット、チベット語と同様に横書きで左から右に進む。 最上段左端は、文章の始まりを示す冠頭記号で、現在「ソヨンボ」と言えばこのシンボルマークを指すようになった。

 


写真7.段の上から、梵字、チベット文字、満洲文字、モンゴル(アリガリ)文字、漢字

 


写真8.トド文字で書かれた写本


写真9.ソヨンボ文字:最上段左端が文章の始まりを示す「ソヨンボ」記号。シンボルマークとして国旗(右図)にも使われている。

 



モンゴル語のラテン文字化

 ロシア国内で、シベリアのバイカル湖付近に住むブリヤート族と、モンゴル高原のはるか西のカスピ海沿岸にすむカルムイク族は、モンゴル語と同じ系統に属する。つまり、ブリヤート語とカルムイク語は、モンゴル語と同じ起源の言語である。現在、ブリヤート語もカルムイク語も、モンゴル国と同様にキリル文字(=ロシア文字)を使って自らの言語を表記している。ブリヤートとカルムイクでは、1930年代末にキリル文字正書法が採用される前に、ラテン文字(ローマ字)アルファベットが採用されており、モンゴルでもラテン文字へ移行する党政府の決議が出され、準備が進められていた。写真10は、1932年にレニングラードで出版された『モンゴル語教科書』の前書きで、ラテン文字でモンゴル語が表記されている。
 モンゴル諸語のラテン文字化の問題は1920年代の末から討議され、数次の試案と会議を経た後、1931年1月のモスクワ会議に至って最終的な決定が下された。この会議では、ブリヤート語のラテン文字正書法が確定したのみならず、モンゴル人民共和国とカルムイク人の使用するラテン字母も統一された。モンゴル諸語だけでなく、ソ連内の中央アジアの諸言語も「ラテン文字化」に向かっていた。世界の社会主義革命をめざすソ連としては、万国共通のラテン文字(ローマ字)の普及を文化の革命として位置づけていたのである。
 ラテン文字正書法は、カルムイクでは1937年まで、ブリヤートでは1938年まで実施されたあと、一斉にキリル文字へと移行した。「世界革命」から「一国社会主義」の路線に転じたソ連では、外部との交流を遮断してロシア文字によって内部のまとまりを固めることが重視されたのである。モンゴル人民共和国では1930年代にラテン文字への移行が決定されていたが、実施に至っていなかった。そして、1940年代にいよいよモンゴルで文字改革が現実の日程に上ったとき、すでにソ連圏の諸民族の流れはキリル文字(ロシア文字)へと移っていた。
 モンゴル人民共和国がキリル文字へと移行した後、中国の内蒙古自治区でも1950年代にキリル文字正書法を採用する決定がなされたことがある。
 写真11は、内モンゴルで出版されたキリル文字表記のモンゴル語図書目録の表紙で、1956年10月とある。目録の中には教科書、読本40点が掲載されている。そのうち21点はキリル文字だけの表記、16点はキリル文字とモンゴル文字の対照表記、1点はキリル文字と漢語(漢字)の対照表記、残りの2点はキリル文字の掛図(アルファベット表)とある。
 中ソ一枚岩の時代には、モンゴル人民共和国と内モンゴルの間でも互いの結びつきと共通性が追求されていたものである。
 しかし、国家間の対立が表面化し、激化するにしたがって内モンゴルにおけるキリル文字化の動きは消滅し、互いの差違が強調されることとなった。
 文字の命運もまた政治と権力の力学の中に置かれている。

元・東北大学 東北アジア研究センター教授(言語学・音声学・モンゴル語学) 栗林 均


写真10.ラテン文字表記モンゴル語教科書(1932)の前書き

 


写真11.『モンゴル新文字出版図書紹介目録』:内モンゴルでキリル文字で出版された図書目録の表紙

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